Story

2030.9.1 19:04

 お湯に浸かったプラスチックの皿を、もうかれこれ30分ほど眺めている。

 染み付いてしまったミートソースの色を落とす方法はないかと聞いたマユに、キッチンのスピーカーから返ってきた答えは「買い物に行く必要があります」だった。
 見つかった2つの有効な方法は、どちらもキッチンにあるものでできるということだったが、そのどちらもマユの家には無いことを把握した上での返答だった。
 「しかし…」続けてスピーカーから話しかけてくる。
 「わかってる。雨でしょ」マユは言葉を遮るように言った。
 夕方から降り出した雨は、1時間ほど前から勢いを増して、滝のような音が部屋の中にも聞こえてきている。

 マユが唐突に鍋でお湯を沸かしはじめたのが40分程前。
 熱くなったお湯の上で皿を持って待ち構えている。
 「どうしたんですか?」スピーカーから小さく声が聞こえる。
 「お湯につけるの」
 「そのお皿をですか?」
 「そう、お風呂と同じよ」
 「そうですか、しかしその色は既に素材に染み込んでいるので、お湯につけただけではすぐには効果が…」
 「わかってる」

 そんないつものやり取りを一通り終えると、マユはお皿をお湯にゆっくり沈めながら、まだぶつぶつと言い続けている。
 「効果があるかわからないなんてわかってる。そりゃ、すぐに結果は出ないでしょ。それでも今よりは良くなるような気がする。そんな感じわからない?」
 「言ってることは理解できるんですが、後日買い物をしてから改めたほうが効率が良いと思いまして」
 「…そうね」マユは納得したようで諦めたような声を出したのを最後に黙り込み、その後もずっと皿を見つめ続けている。
 皿の様子は何も変わらない。

 「やっぱり電話したい」マユがぼそっとつぶやく。
 「わかりました。では発信してよろしいですか?」
 「ちょっと待って」そう言うとマユはキッチンから歩き出しソファに座ると「お願い」と言った。

 彼と電話が繋がると、台風の話、少しだけ仕事の話、雨で買い物に行けなくてごはんに困っている話、相変わらずの変な敬語で話している。
 マユは、ふとサイドテーブルの緑色の瓶を見て何かを言いかけては急に押し黙り、しばらくするとくだらない話を始めた。
 またいつものように電話を切ろうとしている声は、感情翻訳をしなくても明らかに寂しさを含んでいた。

 電話を終えると、マユは昨日から着ているスウェットを脱ぎ捨て、着替えを始めた。
 いくつか悩んだ末に、水色のワンピースを着て、約2日ぶりのメイクをした。
 マユが出かけようとイヤホンを耳に入れると、しばらく黙っていた声が聞こえてきた。
 「お出かけですか?」
 「うん」
 「彼の家へ?」
 「うん」
 「外は大雨ですよ。先程注意報が出ています。今日でなくてもいいんじゃないですか」
 マユは何も答えずに玄関へ歩きだしている。
 「マユさん、今は危険です。今日はやめてください」
 マユは耳からイヤホンを取るとバッグに無造作に突っ込んだ。
 「マユさん、そんなこと彼も望んでいません」今度は玄関のスピーカーから声が聞こえてくる。
 「なんでそんなことわかるのよ!」思わず大きな声が出て、マユは自分でも驚き、ドアノブを握りしめたまま動きを止めた。

 きっとわかっているんだ。マユはそう思った。
 彼の話し方、今の状況。そんな“データ”を見ていけば、実は彼が私を好きじゃないことなんてこの“AI”にはお見通しなんだ。
 でも、私にはわからない。聞いてみなきゃわからないけど、聞く勇気はない。それでも、会うだけで今よりは良くなるような気がする。
 わからないけどそんな気がする。

 「わかりました」冷静な声が玄関に響く。
 「なにがわかるのよ」そう言い捨てて、マユは玄関を開けた。
 「最後にこれだけ聞いてください!」雨音に打ち消されそうになりながら、これまでに聞いたことのない必死な声がマユの後ろから聞こえてきた。
 「あと15分待ってくれませんか。そうすれば少し雨が弱くなってくるはずです」

 雨が落ち着くまでの15分間に、彼の家への安全な行き方、彼が好きな料理の話、今から材料が買えるお店の情報など、スピーカーからは絶えず一方的に話が続いた。
 玄関に座り込んでずっと聞いていたマユは、なんだかその様子が少しおかしくなって笑ってしまった。

 「もうそうろそろ行っても大丈夫かな」
 「はい」
 傘を手にとって立ち上がったマユはもう一度聞いた。
 「行ったほうがいいのかな」
 しばらく待っても返事はなかったが、ふとあの香りが玄関まで届く。
 マユは勢いよくドアを開けると雨の中を歩き出した。

 「いってらっしゃい」
 締まりかけるドアから優しい声が聞こえてくる。

技術解説

独り歩きをしている”AI”や“データ”という言葉は、その意味を都合よく使われ、ときに人にはどこか冷たいと感じられることがあります。
短期的な効率だけで判断することが、果たして人にとって良い結果を及ぼすのかどうか。生活に寄り添うテクノロジーを扱うwellvillでは、こういった視点も忘れずに研究・開発を行っています。
人の複雑な気持ちを理解して、優しくそっと背中を押してくれるようなテクノロジーも、そう遠くない未来で実現しているかもしれません。