2030.8.27 21:37
「はいはい」
瞬時に通話先個別番号と声紋が一致する。彼の声はいつもと変わらず柔らかく落ち着いているが、少し息が上がっているのはきっと自宅に帰る途中なのだろう。
「あっ」マユは声をあげる。自分から電話をしているにも関わらず少し慌ててリビングのソファーから立ち上がり、計画もなく部屋の片付け始めた。
私は、マユの耳に付いたイヤホンを通じて安全な通話だということを柔らかい音で知らせるが、いつも通りそんなことは気にもせず話は始まる。
「どうしました?」電話越しだと少し敬語になるのが彼の特徴だ。
でも、それも最初だけだ。すぐにいつもの口調に戻る傾向にある。そして、この癖はマユにも影響を与える。きっと変な敬語から話は始まるだろう。
「すいません。いや、いつも本当にすいませんとは思ってるんですけどね。まあ、なんか、またいつものやつですかね。」
「自覚はあるんですね。」
はい、とマユは小さく答えながらさっき食べたミートソースのついた皿に水を溜めている。
彼は優しく笑いながら「今日はどうしたの?」と聞いてくる。
「今日はっていうか、今日もなんだけど、あのロボ部長がさあ」
「ああ。まあそうだと思ったけどさ。毎度だけど『ロボ』を悪い意味合いでつかってるのマユくらいだよ」
「申し訳ない。平成イズムが抜けなくてね」マユの声は自信に溢れて全く申し訳なさそうではない。
あれだけ悩んでいた部長のことも、彼と話しているとあっさりどうでも良くなっていて、いつものたわいもない話が始まっている。今日が暑すぎること。ランチで食べたカレーのかぼちゃが固かったこと。帰り道に聴いた曲がやっぱり名曲だったけど、相変わらずタイトルが覚えられないこと。
マユの声が落ち着いていてきたのを確認して、寝室の温度を少し下げ、浴槽にお湯を入れ始め、マユがやっと腰を下ろしたソファーにやさしく風を送る。
ふたりはこんなやり取りをもう208日ほど続けている。ほとんどがメッセージや電話だが、ごくたまにカフェなどで話すこともあった。話の内容は今日の電話とさほど変わらないが、そんなときのマユの声はいつもよりちょっとだけ高くなる。
そんなマユに「今日のデートは楽しそうでしたね」というと、「デートじゃないよ。だって付き合ってないんだから」と言われたことがあった。
人がどこからどこを『付き合う』というのか『デート』というのか、いろいろなパターンを学習してきたが、それでもまだ違うパターンがあるらしい。
そんな『デート』の帰り道、ふたりがふらっと立ち寄った店で、一度だけ彼に買ってもらったものがある。
彼が、これよくない?といいながらマユの鼻に緑色の小瓶を近づけると「ああ。ほんと」といって微笑んでいた。 小瓶の口に何本かの木の棒を入れるといい香りが広がるそれを、彼は「おしゃれすぎて1人で買うのが照れる」といって一緒にレジに並んで同じものを2つ買い、1つを「お礼に」といってマユに手渡した
家に帰ってきたマユは、早速それをリビングのサイドテーブルに置いた。私が香りを数値で解析していると、マユは「すごく知っている香りなのに、鼻に届くたびに特別なかんじがする」と教えてくれた。
あれから72日。小瓶の中は空になり、部屋にはその成分を見つけることはできなくなっていた。
浴槽にはとっくにお湯が溜まっていて、ふたりの電話も終わりそうだ。
「じゃあ、そろそろ」と彼が言う。
うん、と小さく答えるマユの声を聞いて、私はそっと感情翻訳を開始した。
「ほんとだ、もうこんな時間。ごめんね」
(寝ないでこのまま話しててもいいけど)
「ちょうど、お風呂も溜まったみたい」
(ああ、また迷惑だったかな)
「そうだね。またメッセージする」
(メッセージもいいけど、会って話したい)
「ありがとう。元気になった」
(ほんとに元気になった。でも)
「じゃあね」
(やっぱり会いたい)
通話が終わったことを音で知らせても、マユはしばらくぼーっと遠くを見つめていた。
「よしっ!」ぐっと勢いよく立ち上がったマユの声を感情翻訳しかけてやめた。
お風呂の温度を少し低くしておこう。マユがのぼせないように。
技術解説
「わかってほしいけど、わかってほしくない」人にはそんな複雑な感情が働くことがあります。
wellvillでは人の音声を様々な角度から〈感情分析〉をする技術の開発を進めています。
人の言葉はときに本心とは真逆のことを言うこともあり、〈日本語対話エンジン〉と合わせて感情分析を導入することにより、言葉に込められた意味合いをより正確に捉えることが可能になります。
wellvillの〈感情分析〉は、本心を暴くのではなく、人が本当に求めていることはなにかを捉えることで、そこにそっと手を差し伸べることができるようになることを目的として開発をしています。
ポジティブな発言に隠れた本心を捉え、物思いにふけって長風呂になってしまいそうな人の安全を確保してくれる。そんな未来もすぐこそにあるのかもしれません。