Story

2030.9.1 19:04

 扉を開けると、あの香りがした。
 出掛けたときと変わらないまま。

 水色だったワンピースは濡れて藍色に変わり、マユの足元には、裾から滴り落ちた雨の水たまりができあがっていた。
 玄関の床に置いたスーパーの袋を見つめて、先程までのことを思い出す。

 料理の材料を買って店を出ると雨はまた強くなり始めていた。傘を広げて小走りで飛び出すと、お気に入りの靴はみるみる水を吸ってマユの足を冷やしていった。
 そんな靴が少しも乾くことがないまま彼の家を飛び出して、傘もささずに歩き続け、またこの玄関に戻ってきた。
 雨に濡れてスーパーの袋を持つマユを、彼は叱った。なんて危ないことをしているんだと。仕事で少し討論になったことはあるが、彼からそんな風に強く言われたことがなかったマユは、なぜか気持ちとは全く違う言葉で返してしまい、言い争いは収まらず、目の前で起きていることを変えられない自分に苛立って涙が溢れそうになり、踵を返して立ち去った。

 今、顔を濡らしているものは、雨なのか涙なのかもうわからない。
 ひどく冷えていたはずの体が震えなくなっていて、家の中がとても暖かいことに気づいた。
 そういえば、スピーカーからなにも聞こえてこない。不思議に思ってリビングに向かおうとすると、バスルームの照明が灯った。
 浴槽にはたっぷりのお湯が張られていて、そっと足を入れると、いつもよりちょっと暖かく感じた。
 乾燥が終わったばかりのスウェットに着替えて寝室に向かうと、ベッドサイドの間接照明だけが灯っていて、引き寄せられるようにベッドに倒れ込んだ。頭を撫でるようにふわっと心地よい風が吹いてきて、マユがゆっくり目を閉じるのに合わせて間接照明もゆっくりと消えていく。

 水滴のような音が耳に届く。
 止み始めた雨なのか、スピーカーから聞こえてくるのか、もうわからない。

技術解説

wellvillが開発を進める〈日本語対話エンジン〉や〈感情分析〉などは、テクノロジーが人と接することで生活をより良くしていくことが基本です。だからこそ私たちは、人々の生活に介入しすぎないテクノロジーの役割も想定して研究を行っています。
対話をすることや手を差し伸べることも大切ですが、そこに“存在する”だけで安心できるようなテクノロジーとの関係性を、みなさんと一緒にここから築いていきたいと考えています。
その先にはこんな未来が待っているかもしれません。